工具の熱処理・表面処理基礎講座
1-3 工具鋼の焼入性と高温硬さ
使用中に高荷重をうける工具の場合は、表面だけでなくできるだけ心部まで焼入硬化させる必要があります。焼入硬化深さは焼入温度を高くすることによって若干は改善されますが、衝撃値が低下するなど別の問題が発生しますから、高温硬さを高めることを目的として熱処理条件を調整することはありません。この場合には材質に頼らざるをえず、クロム(Cr)やモリブデン(Mo)など焼入性を高める合金元素を多量に含有する鋼種ほど内部硬さは高くなります。
焼入硬化層深さの測定は焼入性試験(一端焼入法)で測定することができますが、これは一般には機械構造用部品に使用される鋼材の試験用として利用されています。各種工具鋼に利用する場合には、同じ試験機および同じ試験片を用いて、焼入温度や冷却剤は所定の条件にて測定することができます。
一例として、図1に各種工具鋼の焼入性曲線を示します。なお、個々の鋼種の焼入加熱温度および冷却剤は図中に示したとおりです。炭素(C)を1%位含有するSK105、SKS2およびSKD12の表面硬さは同じですが、内部硬さの推移はまったく異なります。すなわち、SK105やSKS2の内部硬さは極端に低くなり、SKD12の内部硬さは表面の硬さとまったく同等です。以上のことから、SKD12は大型・高荷重用工具に適した鋼種ですが、SK105やSKS2は小型・低荷重用にのみ適用可能な鋼種であることが分かります。
使用中に温度が上昇する場合や使用環境が高温の場合には、耐熱性も重要な特性です。このときの「耐熱性が優れている」とは、温度が上昇しても硬さが低下しにくく高温強度が優れていること、大気中など酸素を含む環境で高温に晒されても酸化しにくく表面変質しないこと、の二通りの意味があります。工具材料の中では、両特性ともセラミックスおよびCBN焼結体が最も優れており、超硬合金がこれらに続き、最も劣るのが工具鋼です。
工具鋼の高温酸化に関しては、鋼種に関係なく200℃以上では高温になるほど酸化が進行します。そのため、工具鋼を用いた工具類において、耐高温酸化性を向上させるためには表面処理に頼らざるを得ません。なお、この耐高温酸化性を付与する表面処理については、第4章以降で紹介しますから本章では省きます。
工具鋼の高温硬さに関しては、炭素以外の合金元素の種類や含有量が多大な影響を及ぼします。また、高温硬さは熱処理条件によって調節するのは困難であり、鋼種の選定が重要です。すなわち、高温硬さを重視する工具の場合には、焼戻し軟化抵抗を高める合金元素であるCrやMoを含有する鋼種を選定したほうが有利になります。
高温硬さは、図2のような試験片を用いて高温硬さ試験機(加熱雰囲気:アルゴンガス)によって測定されています。一例として、図3に各種工具鋼の加熱温度と硬さの関係を示すように、鋼種間には非常に大きな差異のあることが分かります。なお、このときの硬さ測定条件は、昇温速度は0.33℃/s、各測定温度での保持時間は300s、試験荷重は49.03Nであり、その他の測定条件を含めて図中に示しています。
図3において、室温での最も硬い工具鋼はSK85およびSKS2ですが、これらは他の鋼種に比べて加熱温度の上昇にともなって急激に硬さは低下しており、高温雰囲気では使用できないことが分かります。
SKD4、SKD6およびSKD62は、炭素量は0.3~0.4程度ですから窒温での硬さは600HV以下ですが、加熱温度が500℃に達しても400HV以上もあります。この高い高温硬さはこれらの鋼種に含有する合金元素の効果であり、CrおよびMoまたはタングステン(W)が有効に作用しています。以上のことから、JIS G 4404でも熱間金型用として分類されており、ダイカスト金型などに適した鋼種であることが分かります。
また、SKH57は室温での硬さが高く、しかも加熱温度の上昇にともなう硬さ低下の程度が緩慢であり、しかもすべての鋼種の中でも最も高い高温硬さを呈することから、使用中に刃先が高温になる重切削工具に適していることが分かります。
『工具の熱処理・表面処理基礎講座』の目次
第1章 工具に用いられる材料
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1-1工具材料の種類と分類切削工具や金型など種々の工具に用いられている工具材料には、共通的には高い硬さと耐摩耗性が要求されます。
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1-2工具鋼の種類と分類工具鋼は切削工具や各種金型に使用されるもので、用途によって要求される特性が異なるため、表1に示すように、JISでも多くの鋼種が規定されています。
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1-3工具鋼の焼入性と高温硬さ使用中に高荷重をうける工具の場合は、表面だけでなくできるだけ心部まで焼入硬化させる必要があります。
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1-4工具鋼における合金元素の役割工具鋼は、基本的には高い硬さを要求されますから、炭素(C)は必ず添加されています。
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1-5工具鋼に含有する炭化物の種類と特性鉄鋼材料の種類は非常に多いが、その中でもすべての工具鋼の金属組織は、鉄(Fe)の生地と炭化物によって構成されています。
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1-6工具鋼における炭化物の役割と熱処理挙動焼なまし状態の工具鋼はフェライト(αFe)の生地と炭化物とで構成されており、焼入加熱によって炭化物が分解・固溶してマルテンサイト化して硬化します。
第2章 炭素工具鋼、合金工具鋼の焼入れ・焼戻し
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2-1炭素工具鋼、合金工具鋼の種類と特性工具鋼のうち、炭素工具鋼(SK)および合金工具鋼(SKS、SKD、SKT)は、主に治工具や各種金型に利用されています。
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2-2焼入れ・焼戻しにともなう金属組織の変化焼入れ・焼戻しによって特性を付与される工具鋼は、購入時(焼なまし状態)の組織は例外なくフェライト(α-Fe)+炭化物です。
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2-3焼入れ・焼戻しにともなう硬さの推移炭素工具鋼(SK材)は炭素以外の合金元素は添加されていませんから、質量効果が大きいため大型の工具には不向きです。
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2-4残留オーステナイトの功罪とサブゼロ処理の効果工具鋼のうち大半は、焼入温度の上昇にともなって得られる硬さも高くなりますが、最高焼入硬さが得られる温度を超えると逆に硬さは低下します。
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2-5焼入れ・焼戻し条件と機械的性質の関係工具鋼に要求される重要な機械的性質は延性とじん性ですから、工具鋼を対象にして適用されている機械試験は衝撃試験および抗折試験です。
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2-6焼入れ・焼戻しにともなう寸法変化一般に工具鋼は、焼入れ工程におけるフェライト(加熱前)→オーステナイト(加熱保持中)→マルテンサイト(焼入冷却後)の組織変化にともなって、図1に示すように下記の(1)→(4)の順に寸法変化します。
第3章 高速度工具鋼の焼入れ・焼戻し
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3-1高速度工具鋼の種類と特性高速度工具鋼は、従来からドリルやバイトなど切削工具によく用いられていましたが、最近では耐摩耗性を重視した金型類への適用事例も増加しています。
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3-2焼入れ・焼戻しにともなう金属組織の変化高速度工具鋼の焼なまし組織(購入状態)はダイス鋼と同様に、フェライト(α-Fe)の生地と各種合金元素からなる複炭化物が分散した様相を呈しています。
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3-3焼入温度と硬さおよび結晶粒度の関係高速度工具鋼は、焼入加熱によって熱処理前から存在するすべてのM23C6と一部のM6Cが固溶して、その後の焼入冷却にともなうマルテンサイト変態によって硬化します。
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3-4焼入れ・焼戻しにともなう硬さの推移前項で既述したように、焼入焼戻しした高速度工具鋼は焼入温度が高いほど高い硬さが得られますが、これは焼入れによって多量の炭化物が固溶し、焼戻しによって硬質の二次炭化物が多量に析出するためです。
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3-5焼入れ・焼戻し条件と機械的性質の関係焼入温度は、高速度工具鋼においても、じん性や延性など機械的性質に多大な影響を及ぼします。
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3-6真空熱処理適用上の留意事項真空とは、大気圧(1.013×105Pa)よりも低い圧力の空間すべてであり、圧力の範囲によって低真空(105~102Pa)から超高真空(10-5Pa以下)の領域まであります。
第4章 工具を対象とした表面処理の種類と適用
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4-1工具への表面処理の適用目的と効果金属加工業界を取り巻いている課題は図1に示すように、加工技術に関するものと省資源・環境汚染対策があり、当然低コスト化も十分に加味しなければなりません。
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4-2工具に適用されている表面処理の種類と分類工具には多種多様の表面処理法が採用されており、工具の種類や使用条件によって使い分けられています。
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4-3工具に適用されている表面処理の特徴表面処理を適用する際に、処理対象物に要求される効果を十分に満足させるためには、個々の表面処理の特徴をよく理解しなければなりません。
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4-4工具に適用されているめっきの種類と特徴めっきとは、水溶液中での処理ですから一般には湿式めっきとよばれており、図1に示すように、電気エネルギーを利用する電気めっきと外部からのエネルギーを必要としない化学めっき(無電解めっき)に大別されます。
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4-5工具に適用されている窒化の種類と特徴工具鋼は切削工具や金型に使用されますから、主に耐摩耗性や潤滑特性を向上させる目的で、表面硬化処理の一手段として窒化処理が利用されています。
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4-6工具に適用されている炭化物被覆の種類と特徴鉄鋼製品を対象として、耐食性や耐摩耗性を向上させる目的で、金属元素の拡散浸透処理が利用されています。
第5章 PVD、CVDの種類と工具への適用
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5-1工具へのPVD、CVDの適用効果工具類は、使用中に相手との高面圧での摩擦を伴いますから、耐摩耗性が強く要求され、その防御策として種々の表面硬化処理が適用されています。
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5-2PVDの種類と成膜原理PVD(Physical Vapor Deposition)とは物理蒸着法と呼ばれているもので、図1に示すように、一般には真空蒸着、スパッタリングおよびイオンプレーティングに大別されています。
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5-3イオンプレーティングの変革と特徴最初に提案されたイオンプレーティングは直流(DC)放電法で、処理物(陰極)への電圧印可によって発生する直流グロー放電を利用するものです。
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5-4PVD適用上の留意事項PVDによる皮膜の生成においては、基材を加熱する必要はないため低温成膜法として位置づけられています。
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5-5CVDの種類と成膜原理CVD(Chemical Vapor Deposition)とは、化学蒸着法と呼ばれているもので、複数のガス同士の相互反応によって皮膜を生成するものです。
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5-6熱CVD適用上の留意事項熱CVDの最大の特徴は皮膜のつきまわり性が優れていることですが、鉄鋼材料が対象の場合には変態点以上の高温で成膜されますから、適用上の留意事項が多々あります。
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5-7プラズマCVD適用上の留意事項プラズマCVDの成膜温度は熱CVDよりもかなり低温ですから、得られる皮膜は熱CVDによって生成される皮膜に比べて極めて滑らかです。
第6章 工具を対象としたPVD、CVDによる硬質膜の種類と適用
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6-1PVD、CVDによる硬質膜の種類と分類最初に工業的に適用された硬質膜はTiNです。TiNは金色を呈していますから、当初の対象製品は装飾品など金めっきの代替品としての利用でしたが、硬質であること、摩擦係数低減効果があることから、切削工具に適用されるようになりました。
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6-2硬質膜の硬さおよび摺動特性評価法PVDやCVDによる硬質膜の表面硬さは、一般にはマイクロビッカース硬さ試験機で測定しますが、実用的な膜厚が1~5μm程度の薄膜ですから、測定荷重や基材硬さの影響を大きく受けます。
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6-3チタン系硬質膜の硬さと摺動特性工業的規模で生成されている主なチタン系硬質膜は、TiN、TiC、TiCNおよびTiAlNで、それぞれ使用条件によって使い分けられています。
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6-4クロム系硬質膜の硬さと摺動特性クロム系硬質膜を代表するものはクロム(Cr)と窒素(N)の化合物で、化学組成によってCr、Cr2N、CrNなどに分類することができます。
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6-5チタン系およびクロム系硬質膜の耐高温酸化性工具は使用中に温度上昇をともなうことが多いため、これらに応用される硬質膜にも当然耐高温酸化性が要求されます。
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6-6ダイヤモンド膜の生成法と構造ダイヤモンドは現存する物質の中では最も硬く、しかも機械的、電気的、化学的、光学的など、他の物質では得ることのできない優れた特性を持っています。
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6-7DLC膜の生成法と構造DLC膜の生成法は、炭素の供給源によって大別され、図1に示すように、固体の黒鉛(グラファイト)を用いる方法と炭化水素系ガスを用いる方法とがあります。
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6-8DLC膜の摺動特性とドリルへの適用効果DLC膜の無潤滑環境下における摩擦係数は図1に示すように、種々の物質に対して0.2前後であり、摩擦相手材に対して優れた摺動特性を有しています。
第7章 工具の損傷事例と対策
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7-1工具の寿命に及ぼす因子工具寿命に及ぼす因子には、図1に示すように、設計上の問題、材料の問題、加工の問題および使用の問題があります。
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7-2材料不良、エッジ効果による金型の破損事例前項で述べたように、工具寿命に対して材料の問題と設計の問題は重要項目であり、とくに材料では炭化物の偏析、設計に関するものではエッジ効果が原因の破損が多く発生しています。
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7-3後工程が原因の不具合事例金型をはじめ多くの工具類は、焼入焼戻し後に研削加工や研磨加工することが多く、加工時の発熱が原因で不具合を生じることがあります。
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7-4硬質膜の密着不良の原因とはく離事例硬質膜の生成法には多くの種類がありますが、それらを採用するためには、皮膜の密着性は共通の重要課題です。
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7-5熱CVD処理品の破損事例熱CVDはPVDよりは処理温度が高いので、変形や変寸に関してよく問題を生じますが、膜生成は複数のガス同士の反応によりますから、複雑形状品であっても均一なコーティングが可能です。
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7-6表面処理した工具の腐食発生事例腐食とは、化学的因子によって生じる損傷のことで、乾式による腐食(乾食)と湿式による腐食(湿食)とがあり、とくに後者が問題になります。